2014年3月31日月曜日

増税前最終日

かなりの風を伴った昨日の雨は咲き始めた桜の開きを早めたか?
今日、名古屋気象台は名古屋市内の桜が満開したと発表した。
どうやら桜も風に散らされずに済んだようだ。

満開と聞けば、じっとしていられず、散歩のコースを木曽川に選んだ。
町内で一番樹高の高い1本もののヒガン桜、「うす紅桜」は満開だった。
周辺のソメイヨシノは7分咲きとみた。桜名所の犬山城周辺も同程度だろう。
今週末の花見客には、おそらく落花しきりということになりそう。
悟渓屋敷の枝垂れレヒガンは地面に花びらを敷き詰め、訪れる人もなし。
盛りを過ぎたものの哀れさを感じさせた。

イオンに寄って増税前の最後の買い物をした。
台所の蛍光灯がチラついているので、交換用に20W2本セットで350円、
ノートPC用の無線マウスが動かなくなったので更新。これが1270円。
節税対策にはゴミのような買い物である。
ガソリンスタンドには給油待ちの車が道路に行列をなしていた。

明日からは駆け込み需要の反動で消費が落ち込むのが目に見えるようだ。

2014年3月28日金曜日

敵はさるもの 消費税増税直前のガソリン値上げ

消費税増税まであと3日になった。
我が家では高額なものを買うつもりがないからのんびり構えていたのだが、はたと気がついたのはマイカーの給油のこと。
ガソリンは2重課税の典型的なものだから甚だけしからんと日頃から思っていたところに、更に地球温暖化対策税も加わって増税後は5円/㍑程度値上がりする勘定になるとなれば、増税前に満タンにしようと思うのが消費者心理と言うものであろう。
業界でも駆け込み給油は既に折込済みだという。
そんな訳で、いつものセルフスタンドに走った。
ここは金曜、土曜、日曜日は看板表示価格から1円引きで入れられることを知っているので、昨日150円の表示を確認した上で、今日給油に出かけたのだが・・・、
何と何と、既に154円に値上っていた。しかも、週末割引なし。
そうと知っていたら昨日入れたものをと、ホゾを噛んだ。
敵はさるもの。完全に裏をかきおった!

気分直しに、使い古したガスコンロを更新すべく、イオンの特売品を買い込んだ。
馬鹿らしいような、増税へのささやかな抵抗である。
付記
ガソリンは2重課税ではないという説もある。
その説では、ガソリン税はメーカーが払うから消費者に対しては原価に相当するというのだ。
消費者は原価に対する消費税しか払ってない、だから、2重課税には当たらないのだと。
でもね、国からすれば税金部分に税金を課しているのだから2重課税だよね。そりゃ詭弁というものだよ。

2014年3月27日木曜日

ソメイヨシノの開花


夜来の雨が上がって朝から気温も上昇。
さては桜も開花したか?と、いつもより早く、9時に家を出て足は五条川に向った。


何百本もの桜並木を20分ほど歩く間、チラっと開花している木はあれども、
大方は未だ開花せず、開花を宣言する状態ではなさそうだ。
チラっと、からチラホラと言う感じになれば、開花宣言を出してもいいだろう。
それも終末には間違いなし。気の早い花見客で賑わいが出てくるだろう。
既に、夜桜見物のために照明はセットされ、花より団子衆用の茶店テントも設えられて、準備万端。


公園のピンクに染まったシダレヒガンを眺めつつ、
百均のダイソーへ行ってエンドウ用にネットを買った。
午後からエンドウにネットを設えた。
僅かばかりの菜園を始めてから、家内は花づくりをしなくなった。

我が家は花より団子というところか。

2014年3月24日月曜日

孫達の成長

3連休に娘が孫娘二人を連れて里帰り。
上の孫は小学1年生。
バーバが腕によりをかけてつくった茶碗蒸しを食べさせようとしたら、
「たべたくない」と言った。
訝しく思いながらも無理やり一匙食べさせたら、「美味しい」と言って、1椀平らげた。
「どうして食べたくない」といったのか?と訊ねたら、
「虫が入っていると思った!」だって。
それを聞いて、大人たちは大笑い。

下の孫は2才と2ヶ月。
言葉は片言ながら、何とか意思疎通が出来る場面が多くなった。
相手の言葉をオウム返しにしゃべりながら、嫌なら「イヤ!」とはっきり意思表示する。
しかし、ジジ、ババはもちろん母親である娘にも分からない言葉を時々発するから、大人たちが顔を見合わせながら首をかしげている。
どうやらnative Englishらしい。
家では家事の忙しい時に幼児向けの英語のDVDを見させているのだそうで、
どうやらそれで覚えたらしい。
因みに、ジージがテーブルを指差し「テーブル」と言ったら、見事なnative English
の「table」の発音が返された。
大人は顔負けである。

孫達の成長に目を細めた3連休が過ぎ、再び静かな日常に戻った。
暑さ寒さは彼岸までとはよく言ったもので、昨日今日はすっかり春になった。
お陰で、何となく気分まで春めいてきた。

1週間後には花見が出来るか?

2014年3月15日土曜日

リスタートして第4旗門通過

右肺上葉の腺ガンを切除してから3年5ヶ月。
胸腺に転移再発した肺腺ガンを切除してから8ヶ月経過した。
昨日の検査は、胸部レントゲンが正面と横向きの2枚撮影、採血、問診。
レントゲン写真と腫瘍マーカー値に異常なし、甲状腺の触診で異常なし。
ということで無事第4旗門を通過した。
毎回のことながら、先生の異常なしの判定で、ホッとする。

定期検査コースのゴールは5年先。
1回めは3年経たないところでコースアウトしたから、今回はリスタート。
はじめの1年間は2ヶ月毎に検査の旗門がある。
CTとPET検査は半年ごとに交互に入る。
2年目からは旗門が緩くなって3ヶ月毎。
その先は暖斜面になって、更に旗門ももっと緩くなる。

まるでパラリンピックのスキー回転競技のイメージになった。
急斜面を滑降しているからその先の緩斜面は未だ視界に入ってこない。

ソチのパラリンピックは明日閉会する。


2014年3月12日水曜日

小鳥の賑わい

一昨日までの寒気が抜けたので、昨日と今日の2日続けて木曽川遊歩道へ出た。
昨日は、未だ寒気が少し残っていて、風もあったためか、小鳥の姿を見なかったが、
今日は、さらに気温が上がって春めいて、小鳥も賑わった。


木立のどこからか?綺麗な声でホーホケキョ!
ウグイスはなかなか姿を見せないのが難だ。
シジュウカラ、シメ、ジョウビタキが地面に降りて、落葉を掻いて餌をしきりに漁っていた。
なかでも、ジョウビタキはすぐ近くに寄ってきて、ふんだんに写真を撮らせてくれるからありがたい。
最近見かけるシメは群れをなしている。北へ移動する前触れだろうか? 




2014年3月8日土曜日

同級生の父親の記事


今日の中日新聞の近郊ページに連載の「あいち賢人」欄は、メダカ博士として有名だった山本時男、元名大教授の話。


メダカ博士はボクの同級山本君の父親だった。
そのことはボクが大学に入ってから、クラスの誰かから聞いた。
メダカ博士のことはそれまで何度も新聞に載ったから、名前を知る人は知る。
だから、その息子と同級になった奇遇に驚いた。
同級には他にもう一人、名大教授の息子もいた。
ふたりとも頭が良かったから、やっぱり血筋だなぁ~、と感心したことを覚えている。

同級生の山本君は数年前に肺ガンで亡くなっている。
メダカ博士が定年後自宅につくったという研究室が今も残っているようだが、当時の彼の住所はそこと同じ。
彼も、また、その遺族も、メダカ博士の遺したものを大事にしてきたようだ。
新聞記事からそんな感じを受けた。

付き合いがなかったから、彼が卒業後どんな歩みをしてきたのか?ボクはよく知らない。
彼がガンを手術したあとに始まったML(メーリングリスト)で、僅かに交流を始めたが、
その矢先に彼はガンが再発し、情報が途絶えた。
彼の死を知ったのはその後まもなくであった。

その後ボクに肺ガンが見つかり、彼の病院とは別の病院を選んのも、彼の死が心理的に影響したことは否めない。
しかし、結果的には、ボクの主治医は彼がかかった病院で、しっかり腕を磨いたという先生であった。
その先生が時系列的に彼と出会った可能性があったのかどうか?は知らない。
また、知る必要もないことである。

些細な新聞記事で、今日はここまで想像を巡らせた。
あらためて山本君の冥福を祈る。

2014年3月3日月曜日

山田才吉に関するブログ記述の修正

山田才吉が亡くなったのは聚楽園だそうだが、彼の終の棲家が名鉄の線路際の山田家ではないかというボクの想像はどうやら誤りだったようだ。

昨日のブログの記述を読み返していたら、
現存する山田家の位置から大仏の背中は見えないのじゃないか?という疑問が湧いた。
もしそうなら、山田才吉が大仏の背中を見ながら亡くなっとする場所は、やっぱり旅館「聚楽園」の園内でなければならない。
そう推理して、更に調べたら、答が見つかった。

園内で旅館の建物に向かって少し離れた左側に、平屋建ての風雅な建物があったことを思い出した。
調べてみると、園内に山田才吉の自宅があったという記述を見つけたから、これで辻褄が合った。
また、山田才吉が亡くなった翌年には料理旅館が競売に掛けられて人手に渡ったという記述もある。
大仏を自費で造ったので借金もいっぱいあったのだろう。

それで思い出した。旅館「聚楽園」はどこかの会社が所有しているという噂を聞いたことがある。
更に記憶をたどると、その平屋の家にはボクと同年の男の子が居たことも思い出した。
その子は名古屋市内の有名私立の中学校に通っていたから、普段はボクらとの付き合いはなかったけれども、
どうしたきっかけがあたのか?旅館の卓球場で卓球をして遊んだことがあったっけ。
園内の平屋建ての家に住まっていたのは買収した会社の重役さんの家族だったようだ。
会社から旅館の管理も任されていたのかもしれない。

そんな訳で、山田才吉が亡くなったあと直ぐに、家族は聚楽園の園内から出て線路際の家に引っ越したのだろう。
そう考えるのが妥当なようである。


2014年3月2日日曜日

山田才吉にまつわる思い出

聚楽園大仏つでに子供の頃の記憶を掘り起こして少し書いておこう。

聚楽園大仏をつくった山田才吉は、聚楽園で大仏の背中を眺めなが、昭和12年1月に85才で亡くなっている。
その年の8月にボクは生まれた。
ボクの幼少のころ、彼の銅像も同じように大仏の背中を望む位置にあった。
山田才吉はどんな顔をしていたか?八の字ひげを生やした洋装の立像だったと思う。
ある時、気がついてみたらその銅像が無くなっていた。戦時中の金属類回収令によって供出させられたのだ。
戦後になって、金属故買商がガラスや金属を買ってくれることを知り、残された台座を金ノコで切って売ろうと考えたが、子供達の手におえないことが分かって諦めたことがあった。
銅像の脇あった頌徳は現在、大仏に向かって右後ろ側に移設されている。
このことは前にも書いた。

ボクが物心ついたころ、使われなくなった名鉄の旧聚楽園駅のプラットホームが現在の駅よりも500メートルほど名古屋寄りに残っており、それもやがて取り壊された。
その旧駅の目の前に割烹旅館「聚楽園」への登り口に通じる門があった。
その門と線路を挟んで反対側に、いかにも別宅という趣の住まい家があり、小さな店構になっていて茶葉とか駄菓子類を売っていた。現在は建て替えられて当時の面影はないが、今も後裔が住まいしていると思われる。
この家が山田才吉の終の棲家だったのではないかと、今頃になって気がついた。
当時の大人たちは、あれが山田才吉の家だと知っていたから、話題にもしなかったのだろうか?
だからボクの耳にはいらなかった・・・・?

山田才吉のお妾さんの名前は中村よね。
山田才吉物語によれば、本妻には子供がなく、よねさんとの間に3人の娘が出来て、本妻が亡くなったあと入籍したという。山田才吉の2番めの娘は朝子という名前だとも。
ボクの記憶では、そこに住まいしていた方の姓は山田であり、そこのお婆さんの名前がよねさんだったかは確かでないが、朝子という名前の女性がいたのは間違いない。
ボクが中学生のころ、その山田さんちのお坊ちゃんが、もやってあった小舟に乗って遊んでいるうちに海に落ちたことがあった。
他の子供の呼び声で、近くで遊んでいたボクが駆けつけ、背の立たない海の中でもがいていた彼を引き上げた。
対応が早かったので海水を飲んだだけで済んだ。
あとで母親が菓子折を持ってお礼に来てくれた。
その母親が朝子さんだったかどうか・・・・?
綺麗な人だったのは確かだ。

聚楽園駅が今の場所になったのは、愛知製鋼が昭和15年に操業し始め、引き込み線が必要になったからである。
山田才吉が亡くなり、海水浴場だった聚楽園の海も埋め立てられて製鉄所になった。
聚楽園の賑わいはそれから一気に萎んだようだ。だからボクは聚楽園の本当の賑わいを知らない。
やがて戦時色が強まり、割烹旅館「聚楽園」も軍に接収されて大勢の兵隊が駐屯した。
どんな役割の隊なのか?詳細は近隣住民にもわからなかった。
一度だけ、早朝に機関銃と歩兵銃だけの実戦さながらの演習風景をみたこともあった。
それから終戦まで1~2年だっただろうか?
終戦直後、旅館の裏の丘には塹壕を掘ったあとが残っていた。
兵隊の撤収後、住民が喜んだ置き土産があった。
それは兵隊たちの食料用にヤカン池(潅漑用池の名前)で養殖されていた大量の鯉。
その一部が残されたままだったのだ。
食料不足の折から、地域住民こぞって池干し捕りしたのは言うまでもない。
料理旅館は戦後しばらく営業していたことは記憶しているが、我々貧乏人には縁のないところだったので、内容はほとんど知らない。
だが、伊勢の雲丹館を移築したという立派な木造建築とそれを取り囲んだ庭園が見事だった。
特に、桜、ツツジ、もみじのシーズンが素晴らしかった。

聚楽園旅館が取り壊されたと聞いたのはず~っと後のこと。平成3年だそうだ。
今は辺り一帯が広く聚楽園公園として整備されている。
けれども、何か物足りなさを感じるのは、そこにあるべきものがないからだと、
昔を知る年寄りは思うのである。