聚楽園大仏つでに子供の頃の記憶を掘り起こして少し書いておこう。
聚楽園大仏をつくった山田才吉は、聚楽園で大仏の背中を眺めなが、昭和12年1月に85才で亡くなっている。
その年の8月にボクは生まれた。
ボクの幼少のころ、彼の銅像も同じように大仏の背中を望む位置にあった。
山田才吉はどんな顔をしていたか?八の字ひげを生やした洋装の立像だったと思う。
ある時、気がついてみたらその銅像が無くなっていた。戦時中の金属類回収令によって供出させられたのだ。
戦後になって、金属故買商がガラスや金属を買ってくれることを知り、残された台座を金ノコで切って売ろうと考えたが、子供達の手におえないことが分かって諦めたことがあった。
銅像の脇あった頌徳碑は現在、大仏に向かって右後ろ側に移設されている。
このことは前にも書いた。
ボクが物心ついたころ、使われなくなった名鉄の旧聚楽園駅のプラットホームが現在の駅よりも500メートルほど名古屋寄りに残っており、それもやがて取り壊された。
その旧駅の目の前に割烹旅館「聚楽園」への登り口に通じる門があった。
その門と線路を挟んで反対側に、いかにも別宅という趣の住まい家があり、小さな店構になっていて茶葉とか駄菓子類を売っていた。現在は建て替えられて当時の面影はないが、今も後裔が住まいしていると思われる。
この家が山田才吉の終の棲家だったのではないかと、今頃になって気がついた。
当時の大人たちは、あれが山田才吉の家だと知っていたから、話題にもしなかったのだろうか?
だからボクの耳にはいらなかった・・・・?
山田才吉のお妾さんの名前は中村よね。
山田才吉物語によれば、本妻には子供がなく、よねさんとの間に3人の娘が出来て、本妻が亡くなったあと入籍したという。山田才吉の2番めの娘は朝子という名前だとも。
ボクの記憶では、そこに住まいしていた方の姓は山田であり、そこのお婆さんの名前がよねさんだったかは確かでないが、朝子という名前の女性がいたのは間違いない。
ボクが中学生のころ、その山田さんちのお坊ちゃんが、もやってあった小舟に乗って遊んでいるうちに海に落ちたことがあった。
他の子供の呼び声で、近くで遊んでいたボクが駆けつけ、背の立たない海の中でもがいていた彼を引き上げた。
対応が早かったので海水を飲んだだけで済んだ。
あとで母親が菓子折を持ってお礼に来てくれた。
その母親が朝子さんだったかどうか・・・・?
綺麗な人だったのは確かだ。
聚楽園駅が今の場所になったのは、愛知製鋼が昭和15年に操業し始め、引き込み線が必要になったからである。
山田才吉が亡くなり、海水浴場だった聚楽園の海も埋め立てられて製鉄所になった。
聚楽園の賑わいはそれから一気に萎んだようだ。だからボクは聚楽園の本当の賑わいを知らない。
やがて戦時色が強まり、割烹旅館「聚楽園」も軍に接収されて大勢の兵隊が駐屯した。
どんな役割の隊なのか?詳細は近隣住民にもわからなかった。
一度だけ、早朝に機関銃と歩兵銃だけの実戦さながらの演習風景をみたこともあった。
それから終戦まで1~2年だっただろうか?
終戦直後、旅館の裏の丘には塹壕を掘ったあとが残っていた。
兵隊の撤収後、住民が喜んだ置き土産があった。
それは兵隊たちの食料用にヤカン池(潅漑用池の名前)で養殖されていた大量の鯉。
その一部が残されたままだったのだ。
食料不足の折から、地域住民こぞって池干し捕りしたのは言うまでもない。
料理旅館は戦後しばらく営業していたことは記憶しているが、我々貧乏人には縁のないところだったので、内容はほとんど知らない。
だが、伊勢の雲丹館を移築したという立派な木造建築とそれを取り囲んだ庭園が見事だった。
特に、桜、ツツジ、もみじのシーズンが素晴らしかった。
聚楽園旅館が取り壊されたと聞いたのはず~っと後のこと。平成3年だそうだ。
今は辺り一帯が広く聚楽園公園として整備されている。
けれども、何か物足りなさを感じるのは、そこにあるべきものがないからだと、
昔を知る年寄りは思うのである。