山田才吉が亡くなったのは聚楽園だそうだが、彼の終の棲家が名鉄の線路際の山田家ではないかというボクの想像はどうやら誤りだったようだ。
昨日のブログの記述を読み返していたら、
現存する山田家の位置から大仏の背中は見えないのじゃないか?という疑問が湧いた。
もしそうなら、山田才吉が大仏の背中を見ながら亡くなっとする場所は、やっぱり旅館「聚楽園」の園内でなければならない。
そう推理して、更に調べたら、答が見つかった。
園内で旅館の建物に向かって少し離れた左側に、平屋建ての風雅な建物があったことを思い出した。
調べてみると、園内に山田才吉の自宅があったという記述を見つけたから、これで辻褄が合った。
また、山田才吉が亡くなった翌年には料理旅館が競売に掛けられて人手に渡ったという記述もある。
大仏を自費で造ったので借金もいっぱいあったのだろう。
それで思い出した。旅館「聚楽園」はどこかの会社が所有しているという噂を聞いたことがある。
更に記憶をたどると、その平屋の家にはボクと同年の男の子が居たことも思い出した。
その子は名古屋市内の有名私立の中学校に通っていたから、普段はボクらとの付き合いはなかったけれども、
どうしたきっかけがあたのか?旅館の卓球場で卓球をして遊んだことがあったっけ。
園内の平屋建ての家に住まっていたのは買収した会社の重役さんの家族だったようだ。
会社から旅館の管理も任されていたのかもしれない。
そんな訳で、山田才吉が亡くなったあと直ぐに、家族は聚楽園の園内から出て線路際の家に引っ越したのだろう。
そう考えるのが妥当なようである。
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