一昨日、小学生時代に同じ通学団だった同年生による恒例の昼食会が有った。
このことは以前にもブログに書いたが、去年は幹事役ながら体調不良でドタキャンして欠席、急遽、次の幹事にバトンを渡したという経緯があったので、そのことを開会冒頭に出席者にお詫びした。出席者は男7名、女8名。
毎年の開催だから顔ぶれはほぼ決まっているのだが、去年に比べ3人多いと言うから、多分に幹事の腕が良かったのだろう。何しろ、地域の老人会連合会の会長を務めるH君だ。人望がある。
談笑する話題はいつも同じようだけれど、そこに新しい情報が加わる。
真っ先に上がるのは、誰々が亡くなったという話。
つい先日、F先生が自宅のソファーに座ったままポックリ亡くなったという。ボクを大変可愛がって呉れた先生だった。皆んなで先生の齢を数えた。我々が中学生になった時の若い先生だから、歳の差は10歳前後。ならば、享年90歳に近い。齢に不足はなかったということに話が落ち着いた。ご冥福を祈りたい。
意外に思ったのが皆んながかなり広範な地域の情報を共有していること。
特に女性たちはその傾向がある。
例えば、ボクに実家のことについてボク以上によく知っていることもある。兄嫁の名前もスラスラ出てくるという有様だった。特に女性たちが情報通であることを改めて認識させられた。地元に残った同年生たちの情報ネットワークはたいしたものだ。
ボクには嬉しい情報が一つ得られた。
ボクの生家のすぐ近くに山田屋といタバコやお茶を売っていた店があった。
出席した同年生の女性二人から、その店に「あさこ」と呼ばれた美しい女性がいたという証言を引き出したのであるのである。
その女性について、つい先日、11歳年上のボクの姉から、同様に、「あさこ」という名前の「きれいな人」だった、と聞いたところだ。
期せずして3人の証言が一致。
これで「あさこ」さんは聚楽園大仏を造った山田才吉の次女の「朝子」に決まりだ。
名古屋タイムズの新聞記者が書いた小説「名古屋のどえりゃー男 山田才吉物語」http://sigehiro.web.fc2.com/yamasai1_2.html
によれば、次女の朝子は大正10年1月1日生まれだというからボクより17歳年上である。山田才吉が67歳の時、35歳のお妾さんの「よね」に長女を生ませた。続いて生まれたのが朝子である。3人目の娘もやがて生まれ、3人とも才吉の子供と認知されたが、よねが入籍したのは正妻が亡くなった後のこと。正妻との間に子供が出来なかった。
ボクが10歳ころに見た「あさこ」と呼ばれていた女性は27、28歳であっただろうか?子供心にも「きれいな人」だと思っていた。
そういう思い出が、新しい証言が出てくることによって、より一層鮮明になったと言える。
次回の同年生の会で、またどんな話が出てくるやら、楽しみである。
なお、聚楽園の思い出は、2年前にこちら↓のブログで書いたことを付記しておく。
2014.2.27 美男におわすおらが大仏http://tah3.blog62.fc2.com/blog-date-201402.html
2014.3.2 山田才吉にまつわる思い出http://tah3.blog62.fc2.com/blog-date-20140302.html
2014.3.3 山田才吉に関するブログ記述の修正http://tah3.blog62.fc2.com/blog-date-20140303.html
2 件のコメント :
いまでも小学時代の仲間と交流が続いているのはうらやましい。ボクはこうした交流はまったくない。ぼくは小3のとき名古屋より転校してきてどちらかと言えばヨソ者。しかも地元の中学でなく名古屋の私立中、高校に行ったので、地元とは、より疎遠になったと思っている。
幼なじみと語りあうのは楽しいでしょうね。いまでも貴兄の実家のことに詳しいのは、貴兄はよほど目だった存在だったのでしょう。関心のあった山田才吉の情報が点→線につながったのはうれしいですね。話題になった「あさこ」さんは美人だが、かなり年上で恋の対象にはならなかったでしょう。
ボクは小6のとき同じクラスだった女性が初恋の人だ。掃除などで同じグループになると嬉しくて気分はハイになったものだ。彼女は地元の割烹旅館の娘、おかみさんは評判の美人でその血を受け継いでとても可愛かった。彼女も名古屋の私立商業女子、中、高校に行ったので、通学途中に出会い、ドキドキしながら二言、三言話すのが最高の喜びで、当時ボクはまったくのウブであった。その後大学入学したころから出会いが途絶えた。社会人になってから彼女が気になり会いたいと思い、情報を集めた。彼女は高校卒業後、銀行に就職すぐ職場結婚し、1児をもうけたとのこと。ショックであった。その後の情報で3児の母になり幸せに暮らしているらしい。その旅館は廃業になり、いまはマンションにかわり往年の面影はまったくない。
この想いとダブリ、森田公一の「乳母車」を聴くとこの歌の主人公になったように情景が浮かび、胸が切なくなる。この歌は「青春時代」のような華々しくないがヒット曲になった。
少し長くなるが、この歌詞を紹介しよう。
めずらしく 晴れた日の坂道を
あの人と肩をならべ 歩いている
この僕は手ぶらでも あの人は
カタカタと 乳母車をおしている
三年の年月がそこにある
盗みみた横顔は 今もなお
あの頃の あの人のままだけど
風車クルクルとまわりだし
幼子があどけなく 手を延ばす
風が出てきたからと あの人は
乳母車をおしながら 去っていく
三年の年月が そこにある
うめられぬ年月が そこにある
ぼんやりと 見送った僕は
オーバーのえりを立て 歩き出す
いまでも一度会いたいと思っているが、お互いジジ、ばばになり幻滅を感じるかもしれない。
青春時代の思い出として胸にとどめておくほうは良いかもしれないですね。
>忠ちゃん 実家は兄が建築業を継いだから地元の人にはよく知られていますし、弟自慢もしたとんだと思います。ボクは社会人になるまでず~っと目立たない存在でしたよ。
貴兄の初恋物語、こういう話はいいね!
森田公一の乳母車というのは全く知らなかったので検索しました。こちら↓にありました。
https://www.youtube.com/watch?v=OoxkwspuTpU
聴いてなるほど、貴兄の想いがどんなものかわかりましたよ。
さて、現実にいま顔を合わせたらどう感じますかねぇ?
相手のことも考えないといけないので軽々に言うことは止めときます。(笑)
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