2019年8月16日金曜日

8月15日は何の日?

ボク等を含め、昭和20年8月15日正午の玉音放送をラジオで聴いた者たちは、8月15日を敗戦記念日とか終戦記念日または終戦の日とかと呼んで、馴染んできた。
ところが、今日の新聞(中日)の1面のトップで、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり日本武道館で執り行われた「全国戦没者追悼式」の記事を載せていても、何々記念日という類の文言が見当たらなかった。


慌てて調べてみると、ウィキペディアには、小学校中学校の社会科教科書の多くが終戦の日を8月14日か8月15日と書いており、高校の日本史教科書の多くが終戦の日を9月2日と書いていると記されている。
言わずもがな、8月14日はポツダム宣言受諾の日、8月15日は玉音放送のあった日、9月2日は降伏文書に調印した日 である。


即ち、新しい教育を受けた人たちには終戦の日や終戦記念日の定義が曖昧になっているのである。
こうした定義の曖昧さのもとでは、マスコミも終戦の日とか終戦記念日とかとは言いづらいのは尤もなことだ。


そうなら、せめて戦争の一端を多少とも体験した我々古い人間が、
8月15日を終戦記念日と後世に伝えなければならない。
何たって、昭和20年8月15日は空襲がなくなった日なんだから。
理屈じゃなく実感であった。
この日以降、グラマンが飛来しても逃げ隠れせずに済んだのだから。

2 件のコメント :

忠ちゃん さんのコメント...

80年来し方を振り返ると、自分に関わった大きな出来事は、いまでも記憶が鮮明に残っている。人生最初の思い出は、小学2年生、8月15日の終戦の日だ。みんなラジオの前に座り放送を聞いていた。ボクはその辺をぶらぶらしていた。江南市下般若の母親の長兄の実家にひとり疎開していたが、乳飲み子を抱えた2人の娘も身を寄せていた。その他に長兄の弟老夫婦(ぼくの叔父さん)も別棟に同居していた。実家の長兄は早くに連れ合いをなくし、一人暮らしであった。
そんなわけでみんな自分の家族のことで手一杯。ボクはほったらかし。面倒を見てくれる余裕はなかったようだ。風呂入っても頭を洗ったことがなかった? 髪の毛が伸びすぎて床屋に連れて行かれバリカンで短くしてもらったが、洗髪はなかったようだ。帰宅して頭を爪で引っ掻いたら、ごそっとフケアカが爪にこびりついたのをはっきり覚えている。
母親が実家に来たとき、一学期のボクの通信簿を見た。一年生のときは全部「優」だったのが「良」が4つもあった。それを見て母は、「やっぱり少しは勉強を見てやらないとダメかなあ」と呟いていたのを思い出す。
その後ボクは立ち直り、立派に成長した。(笑)

ター さんのコメント...

>忠ちゃん 下般若での疎開は結構辛い体験でしたね。お陰で、貴兄は立派に育った訳だ。納得です。ボクは疎開経験がないから成長しきれなかったようです。(笑)
それにしても小学校のときの成績をよく覚えていますね。ボクは全然覚えていない。勉強らしい勉強をした記憶もない。兄姉に勉強を見てもらった記憶もない。それでも何とか育った。そんな時代でしたねぇ。