2019年11月11日月曜日

「ごたゃあげさん」

先週の土曜日に、東海テレビの「祭人魂」という15分のシリーズ番組で、
我がふるさとの船津神社の秋の例大祭が紹介された。
テレビを観ていた家内がたまたま見つけてくれた。


祭につきものといえば猩々である。
子供の頃、ボクらは猩々メッタと呼んでいた。
テレビはそれを主体に取材していた。
様子はこちら 録画の一部をコピーしたもの。


ボクの子供時代は、神社の境内で、猩々メッタに、
「猩々メッタ、クソメッタ!」と悪態をつき、
猩々メッタを怒らせ、追いかけさせては逃げ回った。
勿論、猩々メッタは重いからそれをかぶる青年団員といえども、
子どもには追いつけない。
追うのが止まると子どもはアカンベーをして、ゲラゲラ笑った。
現代は、もうそういう悪童は居ないのかも知れない。
いずれにしても、猩々メッタは厄払いの大道具という訳である。
そういう意味では秋田のナマハゲと共通する。


もう一つ、印象深かったのが「ごたゃあげさん」という言葉。
テレビのなかで古老たちがしきりに「ごたゃあげさん」「ごたゃあげさん」と言っていた。
元はと言えば「ご大儀であった!」から変じたものだろう。
「ご苦労さま/ありがとう」という労りと感謝を込めた言葉。
れっきとした名古屋弁だから、よその人にはわかるまい。


ボクが子供の頃、まつり行列に参加出来る子供は小学生まで。
子供たちは獅子頭を先頭に隊列を組んで、家々をまわり、ご祝儀を集めるのだが、
祝儀をいただくたびに、「ごたゃあげさん」「ごたゃあげさん」と祝儀をくれる人と貰う人双方が挨拶を交わしたのだった。確か、子どもたちはおとなたちから、そのように言いなさいと教えられたのではなかったか?
今も、祭りになるとおとなたちはこの言葉を当然のごとく頻繁に使っているが、
さて、今の子どもたちはどうであろう?
「ごたゃあげさん」なんて、日常ではほとんど言わなくなったように思うが、
地元では如何かな?


ボクが小学6年生のとき、お祭りの1週間前に母親が亡くなった。
突然、祭りに参加出来なくなったうえに、忌中の身では神社にも行けなかった。
その時の何と寂しかったことか。今から70年前のことである。

2 件のコメント :

忠ちゃん さんのコメント...

市内南区鳥栖町に住んでいた頃のこと、5歳ぐらいだったと思う。母親と外出した時、たまたま路上で同じような猩猩姿の2人が子供たちを追いかけまわしているのに出くわした。ボクはとても怖くて母の袖の下で身を潜めていた思い出がある。きっとお祭りの境内から抜け出してきたのだろう。名和町ばかりでなくお祭りのとき、こうした猩猩が市内でも使われていたようだ。
大学生時代、所用がありこの付近に出向いた。当時子供たちのたまり場だった集会場に猩猩の頭の部分はそのままで下の部分は骨組み(木組み)だけの張りぼてが窓越しに見えた。ああ当時怖かった猩猩はこれだったんだと感慨深く、懐かしく眺めた。
天白区は小学校区域ごとに細分化して隣組が形成されているが、ぼくの居住していると地区は新興住宅地でこうしたお祭りは一つもない。 古い住宅地である他の学区ではお祭り行事が今も続いている所もあるようだ。付近をウオーキングしていると小さい子供10人ほど全員お祭りの法被を着こみ、頭に鉢巻して歩いているのを見かける。近くの神社に行く途中?
大人になっていい思い出になるだろう。
ところでたまたまネット検索していたら「東海市名和町祭猩猩説明」Krohyan の動画が掲載されていた。視聴者は630とあった。よくまとまっている。貴兄と関係ない人ですね。

ター さんのコメント...

>忠ちゃん ウィキペディアによると猩々祭は緑区を中心に南区、東海市、豊明市などで行われているようですよ。但し、猩々メッタと言っているのは東海市の船津神社だけかもしれない。東海市のホームページで紹介していますね。
こうした伝統を守り、残していくのは結構住民に負担がかかるものですが、そのお陰で子どもたちにいい思い出が残っていくのですよね。
映像で見る限り、無くなったものもあるようです。それは太鼓と引き馬。
当時は、大太鼓と小太鼓を担ぎで、笛と太鼓で囃子を鳴らしながら郷周りしていました。
それに馬も伴っていたと記憶しています。その馬は境内で走らせながら若者が馬の首にしがみついて走るというのが奉納されていました。
ご指摘の動画を拝見しましたが、勿論、ボクとは関係のない方ですね。