今日は小学校時代の通学団の同年生の集い。故郷の公共施設「いこいの村」に11人が集まった。
去年の顔ぶれからはインフルエンザで一人欠けたが、去年欠席した二人が復帰したから上出来である。
皆さん元気だから出席出来た。
昨日のメーテレ(名古屋テレビ)「ウドちゃんの旅してゴメン!」でウドちゃんが太田川駅前から中継したのは、上杉鷹山と細井平州の対面の銅像。それって、いつ出来たの?ボクは初耳。
そこで今日、出席者全員に訊いた。ところが誰も知らないと言った。
さもありなん、出来たのは平成27年というから、ついこの間のことだった。
調べてみると、同じ銅像一対が、平成26年に、米沢市の普門院にも建てられていた。
どちらも東海市平洲会が建立したとある。
但し、銘が違っている。東海市のは「勇」の一文字を付し「対面の像」、米沢市のは「敬」の一字を付して「敬師の像」と称している。
作者は日展会員の工藤潔。
両者の違いを探したら、平洲中学校のブロブに載っていた。
上杉鷹山が若くして藩主になった時の米沢藩は倒産寸前だったが、細井平洲が鷹山の師について以来、血の出るような質素倹約、殖産振興、田畑開墾などの藩政改革を推し進めて、藩政を立て直した。
この話は一時期、日本企業経営者の間でもてはやされたことはよく知られている。
かのJ.F.ケネディをして、上杉鷹山を日本人で一番尊敬する人と言わしめたことも有名な話。
上杉鷹山が師と仰いだ儒学者の細井平州はわが故郷の偉人である。
細井平州は上杉鷹山に「勇なるかな、勇なるかな、勇ならずして何をもって行わんや」と言って、叱咤激励したに違いない。
そして藩政改革が成ってから、上杉鷹山の言った「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という言葉もまたよく知られるところ。
このフレーズを中学生時代にさんざん聞かされたものである。
東海市では「米沢を見ずして平洲を語ることなかれ」と言われ続けてきたから、両市の交流は絶えることなく続いている。その証が、この銅像と言うことなる。
数十年前に、米沢出身者に細井平洲を知っているかと訊いたところ、米沢人ならほとんど知っているよと答えられたことがあった。細井平州の名前は出身地の東海市よりも米沢市の人たちの方がよく知っているかも知れない。
2 件のコメント :
上杉鷹山は承知しているが細井平洲は知らなかった。ネットで検索してみたら東海市の偉人ですね。立派な記念館があるし「平洲君」が市のキャラクターとなっている。
ボクも中学生のころ「為せば成る・・・」のフレーズは聞かされた。これと音読して楽しい「月々の月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月」をよく口ずさんだ。
1週間前の12日NHKのEテレで明治維新150年「鳥羽伏見の戦い 日本激動7日間の真実 新事実!常識は違った悲劇・誤算・裏切り」という2時間特別番組があった。途中から見たが面白かった。明治維新後の歴史は明治村ガイドのため、少しは調べたがそれ以前のことは歴史小説も読まないし全く興味がなかった。
鳥羽伏見、戊辰戦争などは簡単な史実しか承知していなかったので、特に江戸中期、末期のことを少し読み返そうという気持ちになっている。
>忠ちゃん 為せば成る・・・のフレーズを言ったのは上杉鷹山、その元になったのが武田信玄の言葉だそうですよ。上杉鷹山を持ち上げた小説家・童門冬二は平州文庫の名誉館長になっているそうです。
歴史は時の権力者の都合の良いようにつくられるから、鵜呑みに出来ませんね。明治維新に対して、最近、批判的な本もボチボチ出ています。安倍総理が未だに福島の会津地方の人々に受け入れられない気持ちは、官軍が暴虐の限りを尽くした会津戦争の史実を理解するればよく分かります。
我々の時代は司馬史観一色でしたが、時代とともに史観も少しづつ変化しているようです。
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