2013年1月31日木曜日

散歩日和

今日は風もなく、よく晴れて、3月上旬の気温に恵まれ、絶好の散歩日和だった。
こういう日の散歩には木曽川まで足を運ぶのが通例となっている。

風がないときはブッシュや樹の葉が揺れないので、小鳥も見つけやすい。
先日、名を知らぬ小鳥がブッシュから出たり入ったりしているのを見つけたが、
カメラに収められなかった。
そのリベンジにと、今日は、出てこい出てこいと念じながら、先日見かけた辺りを通りかけたら、
運良く、出て来てくれた。
その姿が、ボケボケながら何とかカメラに収まった。
頬の下に見える細長く白い斑点と、首から腹にかけての黄色い模様とから、アオジと判定できた。
もう一つ、直ぐ近くのヤブの中を渡る小鳥の姿もあった。
色と形から推定して、ウグイスと思われるが、カメラを向ける間もなく、茂みに消えた。
直ぐ近くの低木の枝にツグミが1羽。
これはジッと止まって動かない。
ツグミ→カスミ網→焼き鳥という言葉を思い出すと言えば、歳がバレるというもの。
最近はカスミ網猟犯罪のニュースを聞かないのは結構なこと。

 明日から2月、鳥見の好シーズンはまだまだ続く。

(先日掲載した写真の中で、アメリカヒドリかなと思った鳥はコガモのようですね。お詫びして訂正します)

2013年1月25日金曜日

カモたち漂う


昨日は散歩していても汗をかくほどの好天気だったのに、一転、今日はまた寒気が押し寄せた。
だから、散歩にも出ずに、パソコンに向かって昨日の写真を開く。

木曽川に浮かぶカモの中には、普段、岸近くに寄ってこないものもいるが、
そんな中に、たまたま昨日は、20倍の望遠でやっと何とかカモの種類が見分けできる程度の距離まで近づいたのがいた。

白く輝いて見えるのはミコアイサのオスらしい。
首の下、頬が白く見えるのがそのメスか?
目の辺りから目尻にかけて大きな緑色のアイシャドウをつけたのはアメリカヒドリか?
それともヒドリガモとアメリカヒドリの雑種だろうか?
それにしてもヒドリガモのメスらしきのはいるようだが、オスが見当たらないようだ。

木曽川の 水面を渡る伊吹おろしに カモ悠々と 漂いおりぬ

どうやら、頂いた歌集の影響を受けたらしい。
表現が短歌調になってしまった。

2013年1月23日水曜日

歌集を賜る

ボクより4つ年上の知人から116頁からなる歌集が届いた。
見開きに、48年間連れ添った妻に昨年10月先立たれて落ち込んでいたが、若い頃から親しんできた短歌をまとめることで精神的な安定を取り戻しつつあると、記されている。
斎藤茂吉の高弟だった人に若い頃から師事したということだから、見る人が見たら秀作ばかりなのだろうが、その道のド素人のボクにはよく解らない。

だが、終わりの方に並んだ詩歌にいたく胸を打たれた。
例えば 
 窓に倚りて桜見せむと立たしめし老いたる妻のかひなぬくもり
 両の目のひかり衰えてゆく君よ左手(ゆんで)はかたくわれをにぎりて
 美しき老後あらむと語らいし君うつくしく死にたもうなり
 吾妹子(わぎもこ)はゐづくにをらむ中天に位置定まりて月冴えわたる
 をんじきのことも忘れて過ごしゐるひと日みじかし君をらざれば

冊子を頂いたお礼方々、おくやみの電話を入れた。
奥様の追憶の詩歌に触れる話になって、電話の向こうで声をつまらせる気配を感じ、
ボクも思わずもらい泣きした。

もし仮にぼくが家内に先立たれたとして、このように美しく妻のことを語れるだろうか?
到底、出来ない!出来ない!
そう思った時、彼の想いを伝える詩歌のすばらしさを理解したような気がした。
そして、彼自身もまた詩歌によって癒されようとている。



2013年1月21日月曜日

ボクの先祖

昨日、3兄の忌明けで実家に親族、縁者一同が集まった。
七七49日の間、地獄に落ちるか極楽へ行けるかさまよった兄も、大勢に送られながら無事に極楽へ行けたようだ。

 集まったなかに、東京から駆けつけてくれた、ボクの母方の実家の跡継ぎの従兄がいた。
彼がボクに「あなたのお母さんの生年月日を教えてくれ」と言った。
訊けば、自分の家系を調べているのだが、そこだけ空白になっていると言う。
ボクは全く見聞きした記憶がないので、居合わせた長姉と次姉と次兄に訊ねた。
皆、80才以上だ。三人とも、疾(と)うに亡くなった自分の親の生れ年さえ覚えていないし、おふくろの名前は漢字だったか?平仮名だったか?とさえ言い出す始末。
これじゃ駄目だ!
幸い、実家の跡継ぎの甥が偶然にも取り寄せてあった戸籍謄本を出してきてくれた。
それで、問題は解決した。

従兄は、手帳を開いて見せながら、説明してくれた。
ボクの母方の爺さんは7才で養子で入り、長じて嫁を取り、出来たのがボクのおふくろと3人の叔父だったという訳だ。
だから、先祖の血統は一端途絶えていたということになる。
更に驚いたことに、爺さんの父親は他の6人と共同で現在の中京競馬場が有るところに広大な農地を所有したが、それが農地解放で一気に失ったというのである。
終戦後食糧難で苦労したボクのおふくろの姿を今でも覚えているが、農地解放さえなければおふくろももう少し楽ができただろうなぁ~、という感慨を持った。

戸籍謄本ではっきりしたのはボクの親父は7男だったこと。
ボクの記憶では末っ子だったはず。
その親父の末っ子が4男のボクだから、父方の伯父伯母の大半がボクの記憶にさえ残っていない。
だから、そんなボクにとって、母方の従兄の話は新鮮そのものだった。

その従兄、ボクより5才年上で、子供は息子ひとりだけ。
その息子はK大学病院で講師を務め、内分泌科では国内で著名な先生らしいが、残念ながら子供が出来なかった。
従兄には血を分けた兄弟として、分家した兄がいたが、その遺族とはすでに連絡が途絶えているらしい。
そんな事で、母方の本家筋はどうやら断絶する運命にあるようである。
実家の家はまだ残っていて、その一部は文久年間に建てられたというから、築150年のシロモノである。
今は無人だが、ボクの実家の跡取りの甥に頼んで、最低限の手入れだけはしているようだ。
従兄が亡くなったらどうなるだろうか?と思うのだが、そこまでは訊ねなかった。

2013年1月18日金曜日

我が身のサイズを嘆く

日記が少し途絶えた。
別に、体調が悪いとか、何かの都合があったとかということではない。
先日の三連休には娘が孫娘二人を連れて骨休めに押しかけて来たが、
ジージの無聊の慰めにはなったものの、家内には災難だった。
ジージは末孫娘の表情をカメラで追っかけただけ。日記のネタにするほどのことでもない。

14日に降った大雪で東京の交通網が麻痺したニュースは、冷ややかに傍観した。
普段、そうした事象に対応していないし、慣れていないから、馬鹿な連中がノーマルタイヤで繰り出し、混乱に輪をかけることになる。北国ではそうはならない。
昨日は中頓別でマイナス32.1℃を観測したそうだ。
中頓別に昔勤務したNさんの顔を思い描いた。
北国と言っても精々岩手止まりの勤務だったボクにも、想像を絶する寒さである。
アイスクリーム貯蔵庫の中の急冷室がそんな温度だっただろうか?
今冬の寒さは厳しい。
ガソリン、灯油も値上がりしたから、暖房費を少しでも節約しようと、室内にいても防寒着を着込んでいる。上はダウンジャケット、下はウォームパンツと言う次第だ。
ダウンを着だしてからはセーターを着なくなった。誠に軽くて肩も凝らない。
一方のウォームパンツは暖かくていいのだが、Sサイズでは胴回りがキツイからMサイズを買ってくると、裾が長すぎて困る。
要するに、ボクの身長・胴回りはSとMのちょうど中間にあり、その上胴長で短足なのだ。
ついでのことながら、肩幅がないからなのか?リーチも短いときている。
だから、市販の衣類がフィットすることはまずありえない。
こんな時は我が身のサイズを嘆く。

安物衣料ならば、裾上げや袖を短くするのは自分でやる。
今週はそれを4枚仕上げた。
ボクの男兄弟4人はそれぞれ衣、工、住、食の仕事で生活の糧を得ていたが、
そのうち長兄が自宅で洋服仕立をしていたから、見よう見まねで足踏みミシンを子供の頃から操れた。そんなことが、この歳になってもまだ役に立っている。



2013年1月9日水曜日

シーリングライト LED?それとも蛍光管?

我が家の食堂のシーリングライト、これが最近、暗いと感じるようになった。
昨年、白内障を手術して両眼にレンズが入ったし、網膜も健康だったから、視力の衰えということではない。
新しくシーリングライトを取り替えたのが10年前、それ以来、蛍光管を取り替えてないから、暗くなったのは蛍光管の劣化によるのだろう。
蛍光管を取り替えようか?
いっそのこと、エコ対策としてLEDシーリングライトに交換しようか?

価格ドットコムの詳細スペック検索機能を使うといろいろ便利である。
先ず、明るさのこと。
LED照明器具は器具光束で表し、蛍光灯は全光束で表していることを知った。
前者は器具の前面だけに光を放つのに対し、後者は器具の360°にわたって光を放つのだから、表示の仕方もちがうという訳だ。しかし、表示単位が違うので両者を直接比較できない。
だが、蛍光灯は後ろに漏れる光を反射板などで前に反射させるから、大雑把に云えば、全光束の70%程度が器具光束に相当するらしい。そんなことが分かった。
当然のことだが、部屋の広さに応じてLED器具と蛍光器具とはほぼ同じ明るさのものが売られているのである。

では、肝心のエコという点ではどうか?
例えば、6~8畳用では蛍光灯が51~61ワットに対して、LEDが48~61ワットのものが市場に出回っている。
ボク流のカンで云えば、両者の差は10ワット以内ということになる。
何~んだ!LEDはエコだエコだと云うけれども、ことシーリングライトについてはエコというのはおこがましい! じゃないか。
と云うのがボクの結論である。

白熱電球の国内生産がなくなって白熱電球からLED電球に替えるよう奨励されているのはいいけれど、蛍光灯までLEDに替えろというのは言い過ぎである。
ちなみに寿命はLED4万時間と言われるのに対し、蛍光灯の中には2万時間と云うのもあるから、蛍光灯もバカにしたものではない。
新規に買うならLED、さもなくば蛍光管の取替で済ませる・・・というのが賢い消費者ということになろうか。

我が家の蛍光管、計算したら2万時間を超えているようだ。
早速、交換しようっと!

2013年1月6日日曜日

聚楽園(しゅうらくえん)散策

今朝、自宅の庭のバケツの氷は13㍉の厚さたったから、今冬一番の冷え込みだった。
その寒さの中、兄の35日忌法要が行われる実家に出かけた。

実家は聚楽園公園の北側の、聚楽園駅から歩いて10分のところにあるが、1時間ほど早く駅について公園内を通り抜けることにした。
出迎えてくれたのはヤマガラとコゲラの群れ。
何とか、ヤマガラをカメラに収められた。今まで収められなかった相手だから収穫と言える。
園内のヤカン池の一部に氷が張っていた。子供も頃、上に乗れたほどの厚みに凍ったこともあったことを思い出した。今冬は寒い寒いと言っても当時よりはまだ温かいということ。
キンクロハジロも浮かんでいたが、これは子供の頃は見た記憶が無いから、公園環境の整備が彼らを呼び込んだと言えるかもしれない。
大仏の背中を仰ぐ位置に休憩所が出来ているが、ボクが物覚えの付いた頃、そこには大仏を建立した山田才吉翁のブロンズ像が立っていたはずである。
太平洋戦争が激しくなって国民揃って金属を供出させられた頃、台座だけ残して像が無くなった。
戦後、その台座をボク等わんぱく坊主たちが金ノコで切り取り、クズ金属商に持ち込もうと企んだが、どうにも刃が立たなかったという、思い出の場所である。
その場所にあった山田才吉翁顕徳碑と銘碑は大仏の直ぐ右脇に移設されている。
この碑のことをを調べていたら、こんなものが見つかった。
名古屋のどえりゃー男 山田才吉物語 である。
http://sigehiro.web.fc2.com/yamasai1_1.html
あとでゆっくり読むつもりで、とりあえず、ここにメモっておく。

山田才吉が観光地として開発した当時の面影は大仏に残るだけになってしまったが、
今では東海市民の憩いの場として立派な自然公園に整備されている。
今度はゆっくり鳥見に出かけよう。

2013年1月4日金曜日

喪中の正月

正月というのはいったいいつまでなのか?調べてみると・・・・

正月3が日が最短。お役所は今日から始まった。
7日正月という言い方もある。
女正月が15日で小正月とも言った。この日に女性たちがやっと忙しさから開放されるという意味らしい。
松の内というのが関東では7日、関西では15日。
これは元々松の内が15日であったところへ、寛永2年に江戸幕府がお達しを出して7日に縮めた為だそうだ。
鏡開きが一般的に11日であり、それまで神がやどるとされるから、神様中心に考えれば正月はここまでとも解釈される。
正月の解釈で、最長は一月いっぱい。
その他に旧正月というのもある。
終戦前の昭和20年ころまで、ボクの近所の農家はどこのうちでも新暦正月はささやかにして
旧正月で盛大に祝っていた。

以上、正月に期間についてとやかく書きだしたのは、喪中で謹慎中の我が身が手持ち無沙汰でウズウズし出したためなのだが、正月の期間をどう解釈しようとも、七*七 49日の法要が済む1月20日までは謹慎期間が短くなる訳ではない。更に云えば、喪中期間の定めはないから自分で決めればいいのだが、ここは社会通念上で兄弟の場合は30日から3ヶ月というから、忌中がすぎればよしとしよう。

今年は失せ物発覚で年が明けた。
息子夫婦が以前にプレゼントしてくれたマッサージクッションだが、これに電気を通して使ってみたいと息子が言い出し、慌ててACアダプターを探した。
がどこにもない。考えて見たら、年末に不要になったアダプターを幾つか処分した中に混じって捨てたようだ。
ACアダプターというのは何でこんなに規格がバラバラなんだと、メーカーに悪態をついても始まらない。来週はじめに注文するしかないが、結構いい値段なんだよね。これが。
ガラクタ整理も慎重にやらなきゃ!と、今年は反省からスタートした。