2012年1月30日月曜日

昼なお暗い通学路

磐田市は、赤石山脈(南アルプス)が南に伸びて遠州平野に没するところに位置する。
古くは、東海道の見付宿であった所で、今も松並木の名残が散在し、更に遡れば、家康と武田信玄が対峙した古戦場でもある。
市の範囲は、元々は、磐田原台地周辺だけだったのだが、のちの平成の大合併で、今は南の端が遠州灘にまで至る。

娘夫婦は東海地震を想定して、家を建てるについては、地盤の硬い磐田原台地の南端近くを選んだ。
このあたりは新開地だからほとんどが新しい住宅ばかりであり、近くに学校がない。
小学校も中学校も海抜で30数メートル下ったところにしかないから、子供たちは大変である。
まあ、足腰が丈夫になるから、それもよしとすればいいのかも知れない。
だが、しかしだ。散歩がてら、台地の下にある小学校までの通学路を歩いてみて驚いた。
昼なお暗い深山のような森の中を通学路が通じており、途中、裸電灯が2ヶ所あるのみ。辺りには檜の巨木や、20メートルはあろうかと思われるアラガシやシイの大木が林立して、昼なお暗かった。昼日中でも人一人出会わなかった。爺さんでも怖くなったくらいだ。歩数にして700歩あった。それでも、ちゃんと通学路と標識が立っていた。
最近、少し離れたところに立派な道路ができたので、子供たちはそちらに迂回しているらしいが、よくもまあ、こんなところを通わせたものだと、呆れた。


台地と平野の境界は、現在もひとが踏み入れ難い原生林で縁取られていると言ってもいい。
そういう森に接したところに桶ヶ谷沼があった。近くを流れる太田川は、記録によれば、大正時代まで頻繁に氾濫していたらしい。地形的にも沼として存続するにふさわしい環境にあった。
その沼のほとりに名も知らぬ落葉高木が数本あったが、これは植林されたもののようである。
小さな松かさの様な実を頼りに検索したら、ハンノキと知った。沼地を好むという。

2012年1月28日土曜日

桶ヶ谷沼の散歩

磐田市に滞在しているのだから、せめて桶ヶ谷沼くらいは見ておこうかと言う訳で、
今日は桶ヶ谷沼を一周りするお散歩に出かけた。


去年はNHKテレビにも登場したほど、トンボの種類の多さでは有名な沼だが、
さすがに真冬にトンボはいない。
観察小屋が3つあるが、トンボのためではなく鳥の観察用である。
大砲をつけたカメラで水鳥を狙う爺さんが3人いた。
レンズを覗きながら「今日はオナガガモが多いね」と。
この季節、それくらいなら木曽川で、いつでも見られるから、珍しくもない。

一周2kmもあろうか?
大した距離ではないが、途中、林間を30mくらいのアップダウンがあるから、
結構、息が上がった。
そういえば、右上葉を切除して以来、これだけの上り坂を登ったことがなかった。
初めて、肺活量が減っていることを実感した。
ちょっとしたハイキングコースにはいいかも知れないところである。


沼近くのビジターセンターで写真の光景を目にした。
アシスト自転車の無料充電スタンドである。
さすがはヤマハの企業城下町だけのことはある。
調べてみたら、スタンドは市内10ヶ所にあって、磐田駅前に行けば1日200円でアシスト自転車が借りられるらしい。
今度、借りてみよう。

2012年1月27日金曜日

育児ミルクを飲む

娘が第2子を出産して8日目の今日退院し、自宅に戻った。
母子ともに順調である。


幸い今のうちは母乳だけで足りているから、
入院中に貰ったサンプルの調製粉乳が、賞味期限内に使い切れないという。
そういう事なら、母親が飲めばいいじゃないかと、爺さんのボクが言ったので、
早速、味見する仕儀になった。
ボクも上の孫娘もお相伴である。

昔、仕事で調製粉乳の風味チェックしたのはいつのことだったか?
50年以上も前だろうか?
子供が出来て、その時に味を見たという記憶がないし、
それ以降も仕事上で風味を味わった記憶もない。
それほどの昔に味わった記憶の風味と比べるのは如何と思うが、
随分飲みやすく出来ていると思った。
娘が言うには、赤ちゃんに与えすぎると、母乳を飲まなくなるから気をつけて下さい、
と言われたそうだ。
納得である。
育児ミルクを飲んで、美味しいという爺さんも珍しいだろうなぁ・・・・・。

なお、娘が言うには、貰ったサンプルは森永だが、説明会の講師はビーンスターク
・スノー社の人だったというから、はて?ビーンスターク・スノーって何だ?と慌てて調べたら、雪印の社名変更だった。
元いた業界事情にも疎くなってしまったわい!

2012年1月26日木曜日

国会中継を聴く

娘の出産応援に磐田に来ていて、やることといえば、上の孫の保育園送迎と、病院へ娘と生まれたばかりの孫の顔を見に行くことくらい。さすがに退屈である。

車の中で聞くともなく聞いたラジオでは、国会中継。
政治音痴の爺さんも、さすがに今の自民党には少々頭に来ている。
何?自民党に?民主党にじゃないの?と言われるかも知れないが、そうではない。
出来もしないマニフェストで、国民を騙した民主党とその政権を絶対許せないから、ボクには民主党は問題外。だから自民党なのだ。

消費増税国会と云われる第180回通常国会が始まって今日が3日目。
各党の代表質問が始まったが、自民党の谷垣は相変わらず、現政権は総選挙で信を問え、の1点張りである。
この点については、さすがに自民党内部でも批判の声も出ているようだが、何故、自民党は政策を同時に言わないのか?である。

いま総選挙をやれば、民主がこけて、棚からボタ餅とばかりに政権が自民に転がり込んで来ると思っているのだろうか?
仮に、そうだとして、政権を取ったら自民もやっぱり増税路線だったと国民が知れば、国民はやっぱり騙されたと思うだろう。
ならば、選挙の前に政策を国民の前に明らかにして、堂々と論戦を戦わせるべきではないか?
それくらいの腹をくくってもらわないと、応援したくても応援できないぞ!
やっぱり谷垣ではダメか?・・・・

2012年1月22日日曜日

5才、0才、7回忌

18日に磐田の娘の家に移動した。
滞在は1ヶ月の予定で、出産した娘が家事をできるようになれば自宅に戻るつもり。


先ずは、18日が娘の長女の5才の誕生日。
メルちゃん人形の着せ替えをプレゼントにもらって大喜び。
この日が母親と一緒に寝れる最後の日であり、自分でも承知していた。

19日は娘を病院へ運び込んだ。
第2子も帝王切開だから、出産は翌日の午後と決まっている。
だが、多分、女児だろうと言うだけで、最後まで胎児の性別ははっきりしないまま。正確には生まれてこないと判らない。
父親は会社を早引けして保育園へ孫のお迎えと、引き続いて、音楽教室へ引率。

20日、14時45分、女児出産。体重2810グラム。
40才過ぎの高齢出産だから心配していたが、
5体満足で生まれてきてくれたから、皆が安堵の声。
女の子は、これも望むところだから、万々歳であった。
NICUに入った新生児を、看護師がガラス窓近くに運んできて、手と足の指を一本一本数えて見せてくれた。
母親は子宮と腸の癒着があったので、急遽、全身麻酔に切り替えて、剥がす手術をしたから、45分ほど手術が延長したとのこと。あとで本人から聞いた。

21日は義兄の7回忌のため、名古屋までトンボ返りした。
集まった顔ぶれの中にボクの実家の跡継ぎである兄の顔がない。
中皮腫のために体力が衰えている。
新顔は7回忌の義兄の孫娘の婿さんだった。
衆議院議員の秘書だという。
イケメンであり、実に細かいところまで気配りしながら、体もよく動く。
世代交代が確実に進んでいる。

2012年1月17日火曜日

血液検査は何だったんだ!

40日ぶりに整形外科を受診した。受診日はリハビリも受けることにしている。
もっと早く来たかったのだが、目の手術や年末年始が間に入ったので、今日になってしまった。
本当は、リハビリだけでいいのだが、2ヶ月以内に一回は診察を受けろと云うから仕方が無い。

今日の担当医は若手医師の一人。
前回、血液検査をしましょうと言った医師とは異なる。
その医師が、「血清アミラーゼ活性が少し高いだけで、他は正常値に入っていますね」と言ったから、
うっかり「腰痛と関係が有るのですか?」と突っ込みをれたくなったが、グッとこらえた。
次に、「骨密度を測ったことがありますか?」ときた。
すかさず「申し訳ありませんが、乳業関係の会社にいて、長年牛乳をたっぷり飲んできましたし、今でも毎日500ml以上の牛乳を飲んでいるから、カルシュウムは不足していません」と応えた。
そうしたら、どうだろう、「そうですよね。写真を見ても骨はしっかりしているようですから」と、あっさり骨密度の話を引っ込めた。
何のことはない、この医師も手をあぐねて、なんとか稼ぐ方法を考えていたようである。
結局、リハビリをやりながら様子をみることにしましょか、ということになった。
 
という訳で、今日の支払いはリハビリの240円だけ。
診察での指導料の点数もつかなかった。
こちらは医師からみたら悪い患者なんだろうなぁ・・・。
申し訳ない!

2012年1月13日金曜日

馬鹿の剪定

大馬鹿18年と言われるユズを3日間かけて昨日までに剪定を終えた。
一本しかない木だが、ここ2、3年手入をしていないから、
茂るに茂って日当たりと風通しが悪くなったため、
今年のユズは大半がテツサビ病とスス病にやられた。
食用にならず、木の脇に掘った穴の中で転がる運命に相成った。
それでも多少の収穫があって、家内が、懸命にユズジャムをこしらえた。

収穫と剪定を急いだのには理由がある。
娘の第2子出産のために、来週には老夫婦揃って応援に行くので、
1ヶ月留守になるというのが、その理由。

剪定の適期は3月とされるから、こんなに早々と剪定をしたんじゃ、
大馬鹿のユズに、「おまえは馬鹿か!」と言われるかも知れない。
2月下旬に帰ってきたら、たっぷりマシン油乳剤を噴霧してダニを退治してやるから、どうかご勘弁を・・である。
・・・という訳で、来年はほとんど収穫を期待できないだろう。


昨日は全国的に冷え込んだ。
よく晴れて少し風もあったが、こうした日は遠くの山がはっきり見える。
木曽御岳を撮るポジションまで行くルートの選定を間違えてしまって、
今日は12千歩も歩いてしまった。

センテイ違いはダジャレにもならない。

2012年1月8日日曜日

モズと戯れる

モズと戯れたと言っても相手にその気はなかっただろう。
戯れたのはこちらの方だ。

ウォーキングルートの途中に、N高校のグランドのフェンスとその南側に広がる田んぼの間に農業用水路がある。
今日そこに差し掛かかったら、1羽のモズが餌を漁っているところに遭遇した。
数メートルまで近寄っても逃げない。
捕まえた黒い幼虫を飲み込むのが見えた。
慌ててカメラを取り出すと10㍍くらい先の鉄塔の上に移動した。
ここで取り敢えずはカメラに収めるのに成功した。
次に、彼女は数メートル先のフェンスの生垣の中に消えた。
何かを漁っているようだが、見えない。
それでもと思って、カメラを向け続けたら、ヒョッコリ顔を出した。
赤い実をくわえていた。
後で写真を見て、調べたら、マサキの実だった。


モズの早贄なとと言われるから、餌は動物性ばかりかと思っていたが、彼らは雑食性だったのだ。
いい写真が撮れて、今日の散歩は大満足なり。

2012年1月7日土曜日

伊吹おろし

晴天に誘われて木曽川まで散歩に出た。

北西の風は強く冷たいが、30分も歩けば汗ばむほどに体が温まった。

カモ類が予想外に少なく、見える範囲にはキンクロハジロが10羽くらいだけ。

伊吹おろしがまともに川面を吹きわたって行くから、カモ達もどこかで風を避けているのだろうか。



濃尾平野に吹く季節風は伊吹おろし。

我が母校の寮歌の名前でもある(正確に言えば 旧制八高寮歌のうちの一つ)。

新入生のころはコンパでよく歌った。



伊吹おろしの雲消えて    
木曽の流れにささやけば
ひかりに濡れてる國原の
春永劫にかほるかな


休むことなく歩いて往復8000歩。

心配していた足腰への負担も問題なかった。

そろそろウォーキングを全開してみようか。

2012年1月6日金曜日

絶縁状?

昨日今日も、パラパラと年賀状が配達されてきた。
返信分である

昨日配達された年賀状5枚の中に絶縁状が1枚あった。
ありきたりの賀詞を印刷した賀状に添え書きがあって
「賀状での挨拶は今年限りにします。長い間ご交誼ありがとうございました」とある。
近況らしいことは何も書いてない。
何か事情があって自分のことが書けないのかも知れないが、
そうなら、そっけない返事でも仕方が無いか?とも思う。
であれば、絶縁状といってしまっては失礼!な訳で、
この正直者めが!ということになろうか?

義理だけの年賀状は結構多く、もう止めようと思うが、これがなかなか難しい。
先輩の中には、もうこれでお終いだよと言って来られた方もいたが、
これは年齢的に考えても素直に納得できるから、そう云う方には次回から出すのを止めればいい。

また、こちらから出しても返信のない先輩の場合、それが2年続けば、3年目からは出すのを止めることにしている。この場合は、自然消滅だから、いろいろ詮索しなくても済む。

問題は、出すのを止めた方から賀状が来た場合に、今までは必ず返信していることだ。
こういう方々には、こちらからもう止めると宣言すべきか?それとも返事を出さないでおくか?
迷うところだ。
今年の年末にどういう結論出をしているだろうか?自分でも分からない。

2012年1月2日月曜日

2012年 書き初め


元旦の昨日は、大方の予想を裏切って朝日を拝めた。
今日は日が登ってすぐ雲隠れ。そのあと晴天になったが木枯らし吹いて、時おりみぞれも。
年賀状を出しに外に出たが、人出も少なく静かな正月である。

元旦の新聞はチラシと特集版でボリュームばかりでかくて、読むべき記事は少なかった。
テレビは撮り溜めしたタレントの馬鹿騒ぎものか、再放送ものが多く、目新しいものが少ない。
唯一箱根駅伝でテレビを賑わせているが、これも例年通りだ。
Nikkei net によれば、箱根の上り(登りとは言わない)5区で、何年か前に記録を出したランナーに「山の神」の名前がついた、と書いてある。ついでに、ごぼう抜きという言葉も誤用だと。
新年を賑わせるのもいいが、新語や誤用を広めるのは多分にマスコミのせいでもある。

年賀状の中で特に目を引いたのがある。
こちらが去年の年賀状に肺がんのことを書いたから、そのお返しという意味もあるが、
いずれも自分の連れ合いが、がんに罹ったという添え書きがあった。
一人は郡山の人が柏のがん研で治療、もう一人は小山の人がつくば市で陽子線治療を受けたという。
最善の治療を求めて遠隔地の病院を選んで、伴侶のために尽くす人達の健気さに感じ入った。
この他に、入院して酸素吸入を続ける妻のために老々介護する人もいる。
前立腺がんが見つかって治療したひとも二人いる。
こうした話は決して他人ごとでなく、明日は我が身かもしれない。
年を経るほどにその現実が近づきつつあると考えるべきだろうが、
今は、現在の平安が少しでも永く続くことを祈るばかりである。