2013年1月21日月曜日

ボクの先祖

昨日、3兄の忌明けで実家に親族、縁者一同が集まった。
七七49日の間、地獄に落ちるか極楽へ行けるかさまよった兄も、大勢に送られながら無事に極楽へ行けたようだ。

 集まったなかに、東京から駆けつけてくれた、ボクの母方の実家の跡継ぎの従兄がいた。
彼がボクに「あなたのお母さんの生年月日を教えてくれ」と言った。
訊けば、自分の家系を調べているのだが、そこだけ空白になっていると言う。
ボクは全く見聞きした記憶がないので、居合わせた長姉と次姉と次兄に訊ねた。
皆、80才以上だ。三人とも、疾(と)うに亡くなった自分の親の生れ年さえ覚えていないし、おふくろの名前は漢字だったか?平仮名だったか?とさえ言い出す始末。
これじゃ駄目だ!
幸い、実家の跡継ぎの甥が偶然にも取り寄せてあった戸籍謄本を出してきてくれた。
それで、問題は解決した。

従兄は、手帳を開いて見せながら、説明してくれた。
ボクの母方の爺さんは7才で養子で入り、長じて嫁を取り、出来たのがボクのおふくろと3人の叔父だったという訳だ。
だから、先祖の血統は一端途絶えていたということになる。
更に驚いたことに、爺さんの父親は他の6人と共同で現在の中京競馬場が有るところに広大な農地を所有したが、それが農地解放で一気に失ったというのである。
終戦後食糧難で苦労したボクのおふくろの姿を今でも覚えているが、農地解放さえなければおふくろももう少し楽ができただろうなぁ~、という感慨を持った。

戸籍謄本ではっきりしたのはボクの親父は7男だったこと。
ボクの記憶では末っ子だったはず。
その親父の末っ子が4男のボクだから、父方の伯父伯母の大半がボクの記憶にさえ残っていない。
だから、そんなボクにとって、母方の従兄の話は新鮮そのものだった。

その従兄、ボクより5才年上で、子供は息子ひとりだけ。
その息子はK大学病院で講師を務め、内分泌科では国内で著名な先生らしいが、残念ながら子供が出来なかった。
従兄には血を分けた兄弟として、分家した兄がいたが、その遺族とはすでに連絡が途絶えているらしい。
そんな事で、母方の本家筋はどうやら断絶する運命にあるようである。
実家の家はまだ残っていて、その一部は文久年間に建てられたというから、築150年のシロモノである。
今は無人だが、ボクの実家の跡取りの甥に頼んで、最低限の手入れだけはしているようだ。
従兄が亡くなったらどうなるだろうか?と思うのだが、そこまでは訊ねなかった。

0 件のコメント :