2013年8月17日土曜日

1枚の家族写真

手元に古ぼけた1枚の写真がある。
ボクが子供の頃の家族全員が写っている写真。
この写真を撮った時のことは今でも覚えている。
長兄に赤紙が来て、急いで家族全員で写真を撮っておこうということになり、
写真屋に来てもらって撮った。
薄暗い松林を背景になぜ選んだのかと疑問に思うが、これはという場所が無かったので、咄嗟に決めたのだろう。後に空襲が激しくなってから、この場所におやじが防空壕を掘った。
ボクはといえば手にハンカチを持っている。
はやり目を患っていたから、ハンカチを手放せないのだ。

長兄の入営前に、お袋が熱田神宮に出かけて千人針を縫って貰った。
そのことも記憶している。

長兄は徴兵されたけれども海外へ出征することもなく終戦を迎えた。
終戦の1週間前の8月7日に豊川海軍工廠が空襲を受け、2485人が命を落としたとされている。
長兄はそこに徴用工として働いていたから、徴兵されて命拾いしたということになるのかも知れない。
そんなことを思い出して見ると、この写真は昭和19年の夏に撮ったことが分かる。
ボクは国民学校1年生だった。

1959年の伊勢湾台風でそれまで残っていた写真の一切合財をなくした。
後年になって、姉の手元に残っていた写真を兄姉の誰かが複製してくれた。
この写真を見るにつけ終戦前後の情景が今も鮮明に蘇る。
そんな貴重な1枚である。

2 件のコメント :

忠ちゃん さんのコメント...

ボクも国民学校1年生のとき、従兄弟が出征するする挨拶のため自宅にきたので、家族全員と撮った記念写真が残っている。服装を含めて写真全体の雰囲気が貴兄の家族写真と本当によく似ている。貴兄の姿写真がボクだといってもいぐらい似ている。従兄弟は南方戦線まで行ったが、無事帰国した。ボクは4人兄弟の末っ子だが、もう一人長兄(昭和3年生まれ)がいたが産後の肥立ちが悪く一歳で死亡した。「もし生きていたら戦死したかも」と親は話していた。
長兄が亡くなったとき、聚楽園に住んでいたがこの地は縁起が悪いといって、熱田に転居したと両親が言っていたと最近知った。ボクが生まれる前の話しです。

b.nasbee さんのコメント...

ヘエー、そんなに似ていたのですか!しかも聚楽園にご縁もあった由、こういうのを奇遇というのでしょうね。守口漬を開発した例の山田才吉が昭和5年に大仏を建立し、その後観光名所になりましたから、ご両親がもう少し聚楽園に残って居られた印象も違ったものになったかも知れませんね。