2019年4月6日土曜日

桜の下にて

西行が、「願わくは花の下(もと)にて春死なむそのきさらぎの望月の頃」と詠んだのは、旧暦2月の梅の頃に、ということだが、ボクは何故か、桜のシーズンになるとこの歌を思い出す。
中尊寺の月見坂の途中にある西行の歌碑「きゝもせず 束稲やまのさくら花 よし野のほかに かゝるべしとは」を見て以来、西行、花=桜とボクの頭の中で短絡してしまったらしく、如月の梅を弥生の桜に置き換えた方がボクには何となく収まりがいい。


今日は当地の桜が満開。
今年の桜を見ておかないと、来年も見られる保証はない。
という訳で、花見に出かけた。

今日と明日は春の犬山祭。
満開の桜と13台の車山(やま)の勢揃いのコラボは一見の価値があるが、
狭い城下町に大勢が押しかけるから、ニッチもサッチモならない。
一度見に行って懲り懲りした。年寄りは敬遠するに如かず。
五条川の桜なら、大勢がぞろぞろ歩く、賑わいの花見になるが、
年寄り向けのベンチがほとんど無いに等しいから年寄りには向かない。 
結局、木曽川沿いの緑地公園へ、団子もない、ただ桜を見るだけの、これぞ本当の花見。
バーベキューをする者、大きな笑い声で談笑する婆さんグループ、子供を遊具で遊ばせる家族連れ、ウォーキングを楽しむ夫婦連れ、などなど人それぞれお楽しみである。
桜は開花前の蕾がまだあるのに、風に花びらが舞っていた。

2 件のコメント :

忠ちゃん さんのコメント...

記載の「願わくば花の下・・」は、西行の有名な句なんですね。ボクは知らなかった。西行と言えば、百人一首の「なげけとて 月やはものを 思わする かこち顔なる わが涙かな」くらいしか知らない。勉強になりました。
今年の花見、ボクは1週間前の土曜日に施設から天白川堤防を往復6千歩散策した。花は3分~6分咲き程度、同じ場所近くの木でもかなりバラツキがあった。
それにしても梅より桜の花見がこんなに盛り上がるのだろうか。パット咲いてパット散ってしまう儚なさに共感するのだろう。でも花見の場所を確保するため徹夜でがんばり、花の下で宴会を催すのは少し異常だ。
先日「ちこちゃんに𠮟られる」でなぜ花見と称して木の下でどんちゃん騒ぎするのかの紹介があった。貴兄は見ましたか。
それによると日本は農耕民族。桜が開花すると田植えの時期だと知る。それは山の神様が降りてきて桜の木に宿り教えてくれる。それで桜の木の下に酒や供物を供え、その直会として飲み食いを楽しむ。そのDNAが脳に刷り込まれた。というような解説があった。
確かに納得できる説明のような気がします。

ター さんのコメント...

>忠ちゃん 盛岡在住のとき中尊寺に何度か言ったことがあり、そこで西行の歌碑に巡り会ったのがきっかけで、調べたら「願わくは・・」を知ることになったという次第です。
チコちゃんは欠かさず見ていますよ。面白いですねぇ。
現役時代、それも未だ若手だった工場勤め時代は毎年盛大に花見の宴をやったものです。あれはあれで良かったですよ。懐かしいですね。ただ各地で繰り広げられている場所取りというのは如何かと思いまますけどねぇ?
貴兄の場合は商売柄、花見の宴というのはやらなかったのかな?と思っていますが、飲ん兵衛はどこにもいるからそんなこと関係ないかな?