2019年2月20日水曜日

ヤカン池の由来

ふるさとにヤカン池がある。浅山新田への農業用水の溜池だった。 終戦間近になって聚楽園旅館を接収して駐屯した兵隊が、この池で、鯉を養殖して、食料の足しにしていたことがある。
終戦になって兵隊がいなくなったあと、池をかいぼりしたので、ボクも泥だらけになって捕まえたことを記憶している。丸々と太った立派な鯉だった。終戦の夏だったか、その次の夏だったか?ボクの小学2年生か3年生の時ことである。
そのヤカン池という名前について、物心ついた頃、池の形がヤカンに似ているからと教えられた。
でも、ヤカンにしては細長いので、ずっと疑問に思っていた。
その疑問がようやく解けた。

名古屋の浅井七左衛門と大高の山口弥七郎が海を干拓して浅山新田を完成させたのが寛保元年(1741年)で、そのとき灌漑用水池もつくられた。
浅井七左衛門という人の屋号は「ヤカン屋」だった。
それ故、池の名前に屋号を冠したのが、池の名前の由来だそうだ。
以上は、東海市史資料編第一巻(国立国会図書館デジタルコレクション=非公開)に記載されているそうだから、多分、間違いないだろう。

同級生だったAさんは浅井七左衛門の末裔である。
ボクは子供の頃からそのことを知っていたが、新田名の浅山と名字の浅井が一致していないことに疑問を持っていた。
先日の昼食会でAさんが同席したので、そのことを確認した。
浅山は浅井と山口の頭文字に間違いなかった。
屋号を聞きそびれたから、来年、また会ったときに訊いてみよう。

伊勢湾台風のあった翌年、ボクはふるさとを離れた。
その後のふるさとの開発は凄まじく、浅山新田の先の海は埋め立てられ、工業地帯に変貌した。
灌漑用水池としてのヤカン池の役割はとっくに終わっているが、公園の景観に重要な存在になっている。
昔の灌漑用の導水路は今も残っているはず。

2 件のコメント :

忠ちゃん さんのコメント...

ふるさとで旧交をあたため、それがキッカケでなんとなく確かめたく思っていたことがはっきりしましたね。各地の名称にはそれぞぞれ由来があることを知ると関心が深まる。
最近ボクは平針、八事などのの地名由来を目にする機会があり興味を持った。
リタイヤーしてから自分の生い立ちみたいなことを自分史風にA4数枚に纏めた。そのなかで小小学1年生になり最初の国語教科書に「ペンキ、キツネ、ネコ、子豚、タンポポ、ポンプ、プカプカ ドンドン」というしりとり文句がイラストつきで記載されていたことを面白いから今でも記憶している。そのことを自分史に書いたが、果して間違いないか気になった。それで鶴舞図書館まで行き係員に当時の教科書が保存されているか尋ねた。そうしたらさすが中央図書館ですね。ちゃんと年代別に当時の教科書が製本されていてボクの記憶は正しかった。教科書を見て懐かしい記憶が蘇ってきた。最初のページは「アカイ、アカイ、アサヒ、アサヒ」から始まり「ハト コイコイ」「コマイヌサン ア コマイヌサン ウン」が絵入りで続く。
ボクは記憶が蘇ってきそうな数ページをデジカメで撮りパソコンに保存した。ときどきPCのスライドショーで懐かしんで見ている。
貴兄は、小さい時ぼ~として生きていたそうだから小学1年生の教科書なんてまったく記憶の外でしょう(笑)。
「過去ばかりふりかえらないで先を見て歩け」というが、もう先には何も見るものはないから
過去を懐かしんで生活している。。



ター さんのコメント...

>忠ちゃん おっしゃる通りボクはボーッと生きていたから小学校の教科書なんてほとんど覚えていません。(笑)貴兄の記憶力は素晴らしい。それに調査力もね。執念もある。図書館でカメラは禁止のはずですが、よく撮れましてね。
歳が歳だからこの先のことは関心が湧いてこないのは確かですねぇ。今を健康で楽しみましょう。