2021年7月26日月曜日

記憶の中のオリンピック

開催が揉めに揉めたTOKYO 2020オリンピックも今日が4日目。
柔道男女、水泳女子、スケボー男女で金メダルを獲得する選手が出てくると、
今後の競技に興趣が増そうというもの。
オリンピック開催に反対の人達も、きっと日本選手を応援していることだろう。

オリンピックと言えばボクには唯一の思い出がある。

1964年(昭和39年)10月10日、独身寮の窓から見上げた空に飛行機が描いた5輪のマークの雲を見た。

大会入場券は一枚も入手していなかったから、競技を見られる機会は全く無かった。

ところが、突然、Bさんから電話があって、体操女子の入場券が1枚余ったという。

その日の夜、渋谷のガード下の焼き鳥屋で落ち合って入場券を貰った。

高校の同級生のBさんは地元の高校で体育の先生をしている関係で、

入場券の入手が容易だったらしい。

余り入場券だからタダでくれると言ったから、喜んで受け取った。

その前年か?前年々か?に、白馬岳の大雪渓で生徒を引率して登山中の彼に偶然出会った。

そんなことがあったから、ボクのことをすぐ思いついたようだ。


体操女子の競技見物は印象深い。

チェコのチャスラフスカが最後の演技である平均台で、決まれば総合優勝という直前、

館内に突然歓声が上がった。

ちょうどその時、別の競技場で行われていた女子バレーで大松監督が率いる東洋の魔女と言われた日本女子がソ連チームを破ったのだ。

おそらく、大勢の観客がラジオの実況を聴いていたのだろう。

チャスラフスカはその後無事演技を決めて優勝した。


以上、独身時代の思い出の1ページである。


2 件のコメント :

忠ちゃん さんのコメント...

1964年の東京オリンピックにはそれぞれ懐かしい思い出となっていますね。
菅総理が先の党首会談で肝心なことを話さず、その思い出、感動を延々と語ることに時間をかけ、ひんしゅくをかった。
それをTVで見ていたが、国民がもっと知りたいことを説明せよ! こりゃあダメだ!とボクも思った。
ボクの思い出は、当時名古屋工場に赴任していた。仲間と3人で初級社交ダンス教室に通っていた。
工場の行事でクリスマスダンスパーティーがあった。
踊れなくて壁の花ではつまらない! というのが動機です。
夜の開始時間に余裕があったので、最寄りの店で食事をした。その時女子バレーを実況放送していた。
TVでなくラジオだった? あとで録画であの有名な回転レシーヴを観たと記憶している。

b.nasbee さんのコメント...

>忠ちゃん 開催を強行したのは、国民に話せない裏があるに違いないと思いますが、どうなんでしょう?
当時、ボクは東京にいましたが他人事のようなものでした。ほとんどの人がそうだったと思います。