2013年5月17日金曜日

木津(こっつ)用水

先ずは、木津用水の由来について。

慶長11年(1606年)、徳川家康は尾張を直轄地にし、わずか6歳の九男義直を初代尾張藩主とし、家臣団を送り込んで統治を始めた。藩主義直は家康の死後、尾張に入るまで駿府にいたから、藩主とは名目だけ。
家康は慶長13年(1608年)からわずか2年で、犬山から木曽川河口までの左岸50㎞にわたって堤を完成させた。これがいわゆる御囲堤(おかこいづつみ)といわれるもの。
この堤の目的は木曽の木材の大量運搬にあった。
お蔭で、名古屋城や城下町が出来、尾張の中心であった清州を町ごとそっくり移転させることが出来た。(清洲越し)
それから300年に亘り美濃側だけが水害に悩まされ続けることになった。
何故なら、「美濃の諸堤[しょてい]は、御囲堤より低きこと三尺たるべし」という史上名高き不文律が伝承されて来たというのである。
即ち、御囲堤の完成以降、洪水に見舞われるのは必ず右岸側の美濃であって、決して左岸側の尾張ではなかったのである。
一方、尾張の小河川でも木曽川の水が引けなくなったのでは多くの水田の水源を失うことになる、というので、木曽川から水を引く用水工事も行われた。
まず出来たのが現在の宮田用水の原型である。
次いで、1648年現在の木津用水が完成、更に1664年に木津用水を途中で分水して新木津用水も完成した。
お蔭で、新田開発が進んで尾張藩は豊かになったそうだ。
以上、木津用水にまつわる歴史を、濃尾用水拾余話(http://suido-ishizue.jp/nihon/11/01.html)から拾い読みした。

・・・という訳で、木津用水の歴史は古い。
御囲堤は現在もところどころに遺構が残っているようで、わが遊歩道にもある。
また、時として、愛知県民が岐阜県民から洪水の恨み事を言われることもあるから、遺構は忘れ去られても遺恨の方が長く残っていると言えるかもしれない。・・・が、これはまあ、あくまでボクの私見に過ぎない。
現在、宮田、木津の両用水の取水口は犬山城直下の犬山頭首工である。
頭首工から取水して直ぐ、宮田用水と木津用水に別れ、木津用水の方は数㎞下って写真の地点に至る。
更に数百メートル下って新木津用水へ分水する。

散歩途中で木津用水の写真を1枚撮ったばかりにいろいろ調べるハメになったが、
これもまた散歩の楽しみと言えようか?

2 件のコメント :

忠ちゃん さんのコメント...

木津用水はむかし灌漑用として作られた名前だろうぐらいしか知らなかった。その歴史がよく分った。ついでに調べたら、「お囲堤」と同時期に、般若杁、大野杁がつくられた。般若杁は、現在の江南市般若町だ。般若町は母の実家で戦争中疎開した場所。4年前この場所を江南駅からウオーキングした。疎開していたとき水浴びした小川はその用水だったかもしれない。戦後土地改良でなくなったのかその痕跡はまったくなかった。関連を調べるといろいろ情報が広がりますね。「知識を増やすと人生が豊かになる」。キザか(笑)。

b.nasbee さんのコメント...

>忠ちゃん 般若にご縁のある貴兄には興味のある話だったでしょう。
現在、般若用水は宮田用水から分水され暗渠となって流れているはずですよ。
この歳まで生きてきてもまだまだ知らないことばかり、ボケないように何事も興味を持って頑張りましょう(笑)