2013年6月3日月曜日

木曽川の渡(わたし)と杁(いり)の跡


早々と梅雨入り宣言が出たものの そのあと雨らしい雨が降らない。
20日ぶりに麦畑の方向に足を向けたら、もう麦秋だ。
この調子なら、本格的な梅雨の前に収穫出来るかも知れない。
ところで、木曽川緑地公園で御囲堤の説明板を読んでから、
当時あった木曽川の渡し跡と用水取り入れ口である杁(いり)の跡の場所が気になっていた。
そして、改めてしっかり読んだのが写真の説明板2枚。
1枚は杁の場所を示したもので、小渕杁があった場所に説明板が立っている。

これを見ると、木曽川の流れの変化で場所が移動していることが分かった。
もう一枚は般若用水の説明板で、これは小渕杁の少し下流の位置に当たり、般若用水があったという場所に立っている。

これら御囲堤や杁の説明を読んで、家康以前の木曽川は洪水のたびに流れを変え、堤が出来た後も河床が変化していったことを知った。

現在、江南市と対岸の各務ヶ原市の間に愛岐大橋が架かっている。
調べてみると共用開始が1969年(昭和44年)というから、ボクが転勤で江南市に住み始めた1年前のこと。意外に新しい。
それにもかかわらず交通量が激しいから老朽化が進んでいるそうだ。
そのために新愛岐大橋が小渕に計画され、例によって地域住民が反対運動を続けている。
その建設予定地は、山名の渡しのあった位置である。
そこに江戸時代に建てられた常夜灯が今も残る。

脇にある説明文が写真では読みづらいので、全文をメモった。

扶桑町指定文化財 記念史跡 山名渡(やなわたし)の常夜灯
この付近に中世から近代中頃まで「山名(やな)渡(わたし)」と呼ばれる船の渡し場がありました。
初出の文献は『張州府志(ちょうしゅうふし)』宝暦2年(1752)完成の官撰地誌(かんせんちし)で、「山名(やな)渡(わたし) 自北山名村(じきたやなむら) 航到(こうとう)濃州前渡邑(のうしゅうまえどむら)」と書かれています。
一時、中断された時期がありましたが、いつの間にか復活しました。
その後、木曽川の流路の変化により渡し場の位置が下流に移動し大正末期には「小渕渡(おぶちわたし)」として最後の役目を終えました。
この常夜灯は江戸時代末期、「山名(やな)渡(わたし)」の目印として設置された灯籠(とうろう)です。川渡しや船で川を上下する人はもとより堤防上を往来する人にとってもよい目印になりました。
扶桑町教育委員会 平成16年7月2日指定 
(原文のまま。 但し、ルビは要所のみ転記)

愛岐大橋が架かる江南市草井には、橋がかかる前まで渡し場があったようだが、それは山名の渡し場が下流に移動したものではないかと思っている。

ボクの愛する遊歩道は扶桑緑地公園の一部をなしている。
今回いろいろとググっていたら、こんな↓紹介サイトが見つかった。
http://www.j-igusa.com/
余すところなく上手に紹介されている。
但し、トイレだけは臭いし汚いしで、誠に評判がよろしくないが、写真ではそれが分からない。
町では予算化して改修を計画中だと言っているので、期待している。

それ以外は、ウン!ウン!我が町の公園はなかなかのものじゃないか!

2 件のコメント :

忠ちゃん さんのコメント...

扶桑町は、緑地公園など付近には良い散策スポットがありますね。史跡の表示などよく整備されています。貴兄からの情報で疎開していた般若町に関連していろんなことが分ってきた。地図で見ると、貴兄の住む高雄から般若町は近いですね。母親が月1回ぐらいボクの様子を見に盤若町にきた。帰りは「かしわもり駅」まで叔父と見送りした。扶桑駅(下野駅)に行くほうが近いぐらいだが逆方向だから利用しなかったのだろう。見送って叔父と2人でかえるとき、寂しい気分になったことを思い出す。

b.nasbee さんのコメント...

>忠ちゃん 貴兄の疎開時代を思い出すきっかけになってボクも嬉しいね!多分、周りは桑畑だったことでしょう。
般若は駅から遠くて辺鄙な感じがしますが、近くにイオンモールもできて便利になりましたよ。逆に、ゴミ焼却場を作る案が持ち上がっています。どうなりますやら。